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楼蘭国

※古西域36国の楼蘭国 現在写真(イメージ)

     
  •   楼蘭(ろうらん、Loulan、推定されてた現地名はクロライナ Kroraina)は、中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリク)に、かつて存在したアカシア都市、及びその都市を中心とした国家である。

      「さまよえる湖」ロプノールの西岸に位置し、シルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあって、交易により栄えた。紀元前77年に漢の影響下で国名を鄯善(中国語名併音shàn shàn、日本語名ぜんぜん)と改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けた。4世紀頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、やがて砂漠に呑み込まれたが、1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見された。

      楼蘭と呼ばれる都市、またその名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは定かではない。古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる「楼蘭の美女」として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると推定されている。しかし、文献史料に楼蘭の名が現れるのは「史記」匈奴列伝に収録された手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)であり、その間の歴史は空白である。その手紙は匈奴の君主である冒頓単于が前漢の文帝に宛てて送ったもので、この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭,烏孫,呼掲及び近隣の26国を平定したと宣言している。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと。そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる。「漢書」西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は焉耆、危須、尉黎の間に僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した。