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ケリヤ(克里雅)人

※ケリヤ(克里雅)人写真(イメージ)

     
  •  タクラマカン砂漠の最後の原始部落であるクリヤ(克里雅)人は新疆ホータン地区于田県のダリヤブイ(達里雅布依)郷に暮らしている。達里雅(ダリヤ)はウイグル語で河の 意味、布依(ブイ)は岸辺の意味、郷は中国の行政区分である。達里雅布依郷は「河の岸辺村」となる。総人家305戸、総人口1321人の村である。2018年地方政府は力を出して、村人の生活を改善するために、住みやすい場所を選んで大分の村人を転居してもらいました、今残ったのは100戸、450人位の村人を暮しております。ケリヤ人はケリヤ(克里雅)河の中下流域の両岸に住んでいる。ホータンの東・于田県からケリヤ(克里雅)河に沿ってタクラマカン砂漠を約220km北上すれば、ケリヤ人に住むところになる。

     スヴェン・ヘディンは1896年1月コータンから北へタクラマカン砂漠に入り、古代都市の廃墟を発見する。その後、タクラマカン砂漠を横断して、シャヤルを目指して、ケリヤ 河沿いに北へ移動した途中に、「ケリヤ・ダリヤの森のなかには、およそ150人の人たちが住んでおり、他の人間とは行き来せず、あらゆる街道から遠く離れて、それ自体一つの世界を構成しており、いかなる政府当局の手もここまでは及ばない、死のように静かな砂漠の海に囲まれたところである。ここには羊飼いの家族が二組住んでいたが、彼らは露天で焚き火を囲んでいた。まるで野蛮人のようだった。彼らは小さな子供に取り囲まれていたが、子供たちが着ている物といえば、一枚の毛皮だけだった。この泊まり場のそばで、彼らは300頭の羊を放牧していた。男たちの幾人かは、われわれがはじめて見るようなとても風変わりな靴をはいてい た。靴といっても、それは野生のらくだの足を足だこや蹄のついたままをはいていたので ある。この野蛮人のような家族もすぐに打ちとけて、みな写生させてもらうことができた。」 と「スウェン・ヘディン探検記」 に記載された。

     こうして、ケリヤ人は西欧に紹介され一大反響を得るのだが、当のケリヤ人は相変わらず静寂な砂漠の中でのんびりと暮らしていた。

     20世紀の50年代末、中国政府の役人がこの地に派遣され、達里雅布依郷を設立し、 郷の役所を開いた。しかしながら文革中であったので、ケリヤ(克里雅)人はまたもや人々から忘れ去られた。20世紀の80年代のある日、石油探査に携わっていた技術者が目の前の不思議な光景に唖然と立ちすくんでしまった。その後、多くの報道機関が入り、「タクラマカン砂漠の中に最後の原始部落を発見する」と、大報道を開始した。

     彼らは現在に至るまで古濮な民族文化と原始的な生活を保ってきた。幾世代もの家族が同じ屋根の下で寝起きした。老人を敬い、外部の者と婚姻する者は少なく、砂漠の原始部落と呼ばれてきた。ケリヤ人は遊牧を主としてきたが、現在では農耕を営み始めた。

     ダリヤブイ(達里雅布依)郷には数十戸の人家が集中している。郷政府の管轄する範囲は南北 500 キロ近くに及ぶ。南に住む者が北に住む者の婚礼に参加するには二週間近く掛かる。郷政府の者がケリヤ村を巡回するにはラクダか馬に荷物を積み、8日間を掛けるという。

     ケリヤ人が一番困っていたのは水である。郷政府が井戸を掘るまでは大変な苦労があったと言う。 ケリヤ人はダリヤブイ(達里雅布依)郷を引き払い条件の良い土地に引っ越すことを嫌っている。牧畜している山羊はこの地方の草花を食料としており、他の雑草は食べないの で引っ越せないという。

     ケリヤ人のルーツについて、多くの説が流れており、いまだ検討中のようであるが、その代表的な三つの説がある。
    1、タクラマカン砂漠の土着民族であろうとする説である。
    2、南に約 900 キロ下るとチベットの阿里地区になる。ここはかつてグゲ王朝があった 所である。ラダック王朝に滅ぼされ(1630 年)、タクラマカン砂漠に逃げ込んだグゲ王朝の 末裔である。
    3、「河の岸辺村」から東に約 450 キロの位置に、かつて楼蘭王国が栄えた。しかし、2000 年前、謎のまま忽然と消えてしまった。その楼蘭王国の末裔が住み着いた。